写真家の人に、いつか聞いてみたいと思っていた質問があります。
それは、「写真家は、何を見ているのか」ということ。
写真家やカメラマンは、「写真を撮る」ことを仕事としている人たちです。でも、「写真を撮る」という行為の前には、対象を「見る」行為が発生していると思うのです。
だからこそ、写真を生業とする方たちの魅力は、その眼差しにあるのではないかと、考えてしまいます。
小林で23歳から写真館を始め、以後50年間、写真を撮り続けている川原信幸さん。小林の地に根を張り、たくさんの人々の人生の節目を見続けてきました。
川原さんの眼差しがどこに向けられているのかを伺っているうちに、幾度となく口にされていたのは「運が良かった」という言葉。その言葉は、育ててくれた地域や人への想いに溢れていました。
(以下、川原信幸)
その人の一番良い表情を見て盗むのが、写真家の技術
写真って、100%笑っている顔が良いとは限らないと思うんです。重要なのは、笑顔の度合いで。
微笑みが良い人もいるんです。その人の一番良い表情は、こちらで見て盗むしかない。私は、お客さんがお店に見えたとき、「いらっしゃいませ」のすぐ後に冗談を言って笑わせるんですよ。そのときに、笑顔の度合いを盗むんです。
写真は、気に入らないものでも一生持っておかないといけないでしょう? 私は「もう見たくない」という写真の話もたくさん聞かされたし、成人式の写真を見た瞬間に投げてしまった人も知っている。そういうことは世の中にたくさんあるんです。
営業写真というのは、写っているのは当たり前でも、見ていただいた時に「わー!」くらいは言っていただかないと。「ふーん」くらいでは、満足していないなと思わないと。写真館は、人生の節目を撮る仕事ですし、やっぱり、喜んでいただけるのが、最終目的ですから。
写真を始めたきっかけは、兄からの言葉
初めは、写真を仕事にするなんて、考えてもいませんでした。
高校卒業後は、博多の材木店で働いていたんです。一番上の兄の仕事を手伝っていました。
昔はリフトがなかったので、材木を手で運ぶんです。私は長身な方ですけど、当時は体重が57キロしかなくて、恥ずかしいくらい痩せていました。だから、材木を運んでいるときも肩から血が出たり、肉体的に無理をしていて。
1年経ったときには、「これを一生するなんてとんでもない!」と考えていましたね。それで実家に帰ったときに、母親と兄に相談をしたら「一生、嫌な仕事をする以上にきついことはなかろう」ということで辞めることにしたんです。
これから何をしようかなと考えていたら、真ん中の兄が「お前は写真やってみないか?」と言うんです。その兄は銀行員でした。当時、小林には大きな写真館があったんですよ。小林の写真を一手に担うような、すごい写真家の方がいたんです。兄は銀行員の目から見て、「小林に、もう一軒くらい写真館があってもいいんじゃないか」と思ったんでしょうね。
そのあとは、ツテで北九州の写真館で住み込みで修行させてもらえることになりました。師匠からは「苦労する気だったらおいで」と言われましたね。ヒビキスタジオという写真館でした。
でも、それまで写真に携わったことなんてなかったんですよ。「写真!?」って3回くらい聞いたのを覚えています(笑)。写真でどうやって食べていくのか分からなかった。そのあとに写真館だと教えられて、それでようやく少し想像がつきました。そのくらいからのスタートでした。
人と、運に恵まれた写真家人生
北九州の写真館では、住み込みで食事だけいただき、給料はなし。休みは月に2回、小遣いも三千円くらいでタバコを買うのでもう精一杯。そんな生活を4年弱していました。業界的に考えると、すごく短い修行期間なんです。
当時はモノクロの時代でした。その頃の写真もやっぱり顔の修正をよくやっていて、ネガフィルムに直接、鉛筆を入れて修正するんです。ネガフィルムというのは、明暗が反転した状態なので、鉛筆の芯を細く針みたいに研いで黒を埋めてスッキリ見せる。若くて肌が綺麗な人はそんなに修正するところはないんだけど、お年寄りにはみんなシワやシミがあるでしょう。それを自然に馴染ませるんです。この作業が一番、上手と下手の差が出る。下手な人はどんなに修行しても下手なままですね。変な修正をすると、逆にミミズ腫れみたいになります。
でも私は、この修正作業をすごく早く覚えられたんです。それだけは師匠も、何回も褒めてくれました。
たくさん苦労しましたが、運が良かった面もありました。
結婚式や成人式を一人で撮るのは、もう頭が真っ白になるくらい、簡単にできることではないです。だけど忙しいお店だったので、どうしても人手が足りなくなって、自分が撮る番が回ってくる。練習なんてのもできません。私が運が良かったというのは、修行してちょうど1年のときに、銀行員の兄の結婚式があり、そこで初めて結婚式の撮影ができたこと。師匠からは「1年でこんだけ写せれば立派なもんじゃ」と言われました。
それで少し信頼を得られたからか、どうしても人手が足りないときには「川原くん撮ってきて」と言われるようになり、だんだんと数をこなせるようになりました。ちょうどその頃、北九州市の小倉にある毎日西部会館が披露宴を開くようになって、私はそこに常駐をするようになった。そして全部任されたんです。1日5、6組がざらにある会場だったので、ものすごい数の撮影を経験できた。こういうタイミングが合わない人は、5年経っても一人で現場を任されないので、これはすごく運が良いことです。
そうやってたくさんの経験を積ませていただく中で、私の中には「早く覚えて、小林でお店を出すんだ!」という想いがずっとありました。銀行員の兄も、「少しでも早く開業を」と急かしました。
今でも忘れません。「辞めさせてください」のひとことが言えずに1週間経ったこと。そして、22時くらいまで師匠と二人で修正作業をしていたときに、ついに言ったときのことを。
「まだ早い」。そう言われると思ってました。けれど師匠は、「そんな話があるんだったら、帰って、頑張れ!」と言ってくれた。本当にいい師匠だった。今でも思い出すと、涙が出そうです。
独立後もね、私は年に1回、写真を持って見てもらいに行っていたんです。あそこには息子が二人いて、私より3つくらい下の長男がいるんですけど、師匠は私のことを「長男だ」と言って上座に座らせてくれるんだもん。本当に恵まれた環境でした。
泥臭く、足で稼いだ23歳
小林に戻ってきて写真館を始めたのは、23歳のときでした。
人によっては、あからさまに見下した態度をとられたこともありました。「写真撮れるの?」みたいな。だって、小林にはすでに大御所の写真家がいたわけですから。頼りなく見えたんでしょう。
結婚式が多い時代でした。けれど、待っていても結婚式の仕事は来ないので、まずは営業をしました。夜になると、結婚式を挙げる予定の人のご自宅に、アルバムを持ってお伺いして、「写真館を作ったんですけど、もし結婚式の写真を決めていなかったら、写真を撮らせていただけませんか?」と聞いて回りました。仕事が取れたときは本当にうれしくて、手伝いに来てくれていた母親と二人で、喜んだことを覚えています。
「小林にもう一軒、写真館ができて良かった」という声も多くて、そこからさまざまなご紹介をしていただきましたね。
苦労もしましたが、順調に近い形で仕事が増えていったと思います。人との縁があったから、続けてこれました。
育ててくれた、小林への恩返し
私は長い間、「天守閣」という結婚式場を任されていました。そこに宮崎の方から、大御所の美容師さんが来ていたんです。一目見ただけで、「あの人の着付けだ」って分かるくらい、上手な方。その先生は、見本で置いてあった私の写真を見て「宮崎に出て、結婚式の写真を撮ってくださいません?」と言われたんです。
「宮崎に出たらいいのに。息子さんが跡取りとしていらっしゃるんだから」とは、昔から言われてはいたんです。「もういいよ。小林に根づいたから」と返していたんだけど、その美容師さんの言葉は心に残った。宮崎は小林よりも市場が大きいし、宮崎で撮っている友達の同業者を羨ましいと思うこともあったんです。妻に話したら「昔からの夢だったものね、任せるよ」と言うもんだから、宮崎に土地を買ってスタジオを作りました。それが、還暦の頃。
じつは宮崎のスタジオを作るとき、師匠からは「こんな時代に大丈夫か、無茶をするなよ」と言われていて。でも私は「師匠、響の名前もらいますよ」と返した。
宮崎のスタジオには、「川原」ではなく「響」ってつけたんです。それほど師匠のことが好きでした。
宮崎には12年間いましたが、4年前にガンが見つかり、左の腎臓を摘出しました。お医者さんからは「ストレスと塩分を取らないように」って言われて。でも、仕事をしていたら絶対にストレスはあるんですよ。それは仕方ないです。それもまた妻に話したら、「もう自分で好きで行ったんだから、好きに帰ってきていいんじゃない?」と。それで2年前に小林に帰ってきました。
小林のスタジオは息子が頑張ってくれていて、私は時々手伝う程度でストレスも感じません。おかげで体調がすごく良く、お医者さんも定期検診で褒めてくださいます。小林を離れるときも帰って来るときも自由にさせてくれた、妻や息子に感謝です。
去年は創業50年の節目。
地域への感謝の気持ちとして、60歳以上の高齢者を対象とした無料撮影を実施して、市役所で写真展を開きました。喜びの声をたくさんいただき、開催してよかったと心から嬉しく思っております。23歳の若造が、ここまでやってこれたのは、写真館を支えてくれた小林の人たちのおかげなんです。私自身、地域に育ててもらったと思っています。
師匠のもとで修行していたときに、こんなことがありました。
お店のお得意様が、お孫さんのお宮参りに見えたんですけど、そのときにスタッフがみんな出払っていて、仕方なく私が写したんです。そうしたら赤ちゃんが、いくら粘っても笑顔が出ない。「もう仕方ないですよね」と、お帰りを見送っていたらやっと笑顔が出て、すぐに「もう一回上がりましょう」と言って撮り直し、可愛い笑顔が撮れました。
そしたら、師匠が「川原くん、お得意さんがすごく喜んでたよ」と褒めてくれて。今までそんな風に褒められたことなかったので、こんなに人に喜んでもらえることがあるんだという気持ちが、快感だったというか。やっぱり褒められると人間ってね……きっと私は調子に乗るタイプなんです(笑)。
今でも本当はどんどん写真を撮りたい。でも、もう74歳ですからね。
妻と二人で晩酌しながら「え、まだあと10年も生きるつもり?」なんて言われたりします。せめて余生を楽しく過ごせたらいいですね。それでたまにシャッターを切れたらいい。
本当に、写真の世界に入れて、師匠に出会えて、よかったなぁと思っています。
川原 信幸(かわはら のぶゆき)
宮崎県えびの市出身。小林市の高校を卒業後、北九州市の写真スタジオで3年半ほど修行をし、1969年小林市に川原写真スタジオを創業。昨年開催された60歳以上の写真展では、100組の方を撮り、展示した。
(この記事は、宮崎県小林市と協働で製作する記事広告コンテンツです)
文/早川大輝
編集/小山内彩希
写真/土田凌
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