「仕事も家事も、あなたは基礎をちゃんと学んだほうがいい」。
こう助言を常々受けてきたぼくは、ものごとの根っこにあたる基礎を大切にしようとしてきました。
けれども本質を掴めず、小手先のテクニックでどうにかしようと右往左往。前進していないことがよくあります。
上辺だけをなぞる本質の伴わない自分に〝伝統とはなにか〟紐解きながら「答えのない状況でも本質を身につけていく術」を教えてくれたひとがいます。
彼女の名は、上村鮎子(以下、上村)さん。
盛岡八幡宮「流鏑馬(やぶさめ)」の師範に弟子入り後、スポーツ流鏑馬の大会で女性として初優勝。
伝統を後世へと継承するべく、クラウドファンディングに挑戦して流鏑馬の教本を英訳出版したり、アメリカの人々に流鏑馬を伝えに行ったり。
平安・鎌倉時代から続く伝統文化の裾野をひろげている上村さんは、日本の女流騎手の第一人者です。
馬と出会って18年間、華々しい経歴の裏側では騎射(うまゆみ)の技を体得しようと、苦心した日々があったそうです。
芸を磨きたくて、あがいても空回りしてしまうとき。答えが見えないときに。上村さんの言葉を思い出してみてください。
(編集部が十和田乗馬倶楽部に到着し、まもなく白い軽トラで現れた上村さんは、厩舎や放牧場、グラウンドを案内してくれました)
上村鮎子(かみむら あゆこ)
十和田乗馬倶楽部の代表取締役。ウエスタン乗馬インストラクター。十和田市出身。女人禁制・男だらけの伝統技の流鏑馬の美しさと魅力に感動。盛岡八幡宮流鏑馬の師範に弟子入りし、流鏑馬を競技化したスポーツ流鏑馬に女性として初めて大会に参加し、初挑戦・初優勝の快挙を成し遂げた。32歳で乗馬のインストラクターを取得し、馬のまち、十和田市を盛り上げようと全国で唯一の女性だけのスポーツ流鏑馬「桜流鏑馬」などの大会を企画し、体験できる観光型事業として海外へも発信している。第20回ふるさとイベント大賞の「桜流鏑馬」が内閣総理大臣賞を受賞し、年々増加している女流騎手の第一人者として現在も活躍中。
女人禁制だった「流鏑馬」を女性のスポーツへ
上村 今日はどんな話をすればいいの?
── 女性だけの流鏑馬をはじめた理由を入り口に、上村さんのことを深く知れたらなと思っていまして。
上村 はいはい。それでいうと19年前の1999年に、私は父が経営している会社の営業部に所属していて。当時、全社をあげて馬で東北を横断するプロジェクト(「東北縦断600キロ パイオニアホースキャラバン」)を起こしたの。
その頃の私は、ふたり目の子どもを授かっていた。その産休に入る前に、このプロジェクトのお手伝いをしたことがきっかけで、馬といる時間が増えました。
それまで本社の営業部で勤めていたんだけど、枠におさまらなくて組織に馴染めないタイプだったから……。なんとなくわかるでしょ? 私みたいなのがいたら困るって(笑)。
上村 会社の中で規格外の組織だった十和田乗馬倶楽部に飛ばされて、馬を世話する作業をしているうちにハマったっていう。
厩舎(きゅうしゃ)を掃除していたときに朝日で輝く白い馬のシルエットを見てね、あぁ綺麗、馬って美しいんだなって。
── 流鏑馬を始めたのはいつになるんですか?
上村 十和田市が馬を活用して地域を盛り上げていきたいということで、2003年に会社として「女性の流鏑馬」事業を始めることになりました。
はじめは会長が新しいことをやろうとしているから一助になれればいいな、くらいにしか思っていなかったんだけど。
── でも(流鏑馬に)夢中になっていくんですよね。
上村 そうね。流鏑馬はもうすぐ寿命をまっとうする馬の花道でもあったの。
「流鏑馬をやるのは会社の方針だから、一度観に来なさい。お前の馬の花道をつくってあげるから」って、お付き合いのある馬主さんに声をかけていただいて。
当時、自分が育ててきた馬のさいごの晴れ舞台として、初めて流鏑馬を見たの。厳粛かつ荘厳で、その魅力に引き込まれながらも圧倒されました。
上村 同時に、男性が1,000年以上守ってきている女人禁制の伝統技で女だけの流鏑馬(桜流鏑馬)をやるのは前代未聞だし、とても失礼だと思ったわけです。
上村 でも、やると決まったからには伝統を受け継いできているひとたちに恥をかかせないように私も精一杯がんばろうと思って、流鏑馬に向き合ったのが運の尽き(笑)。もう、その後とにかく苦労したんですよ。
伝統とは、形・やり方・考え方
上村 あなたは伝統ってどんなものか、答えられる?
── ……引き継いできたものを残しつつも現代版に更新したもののことを指すんでしょうか?
上村 それは型破りの域だよね。
上村 私は盛岡八幡宮の師匠に、伝統とは昔から伝わる「形(様式)」「やり方」「考え方」の3つなんだって教えられました。
昔から伝わる「①形」とは、馬の乗り方・弓使い・馬の取扱いといった「様式」のこと。その形を習得するために「②やり方」と、なぜそのやり方をとるのか「③考え方」があるの。
上村 流鏑馬は、自分の子や弟子のひとりだけに秘伝で伝えて、他には秘密にして漏らさない一子相伝(いっしそうでん)の世界。
私は「形」をつくる「考え方」だけ師匠に教えてもらえたけど、「やり方」は自分で体得していくしかなかったんです。
「その弓の最大の貫通力を出すような技を身に着けなさい」
「人馬一体、ひとつの塊となりなさい」
「美しくなければダメだ。そうでないと理にかなってない」
抽象的なことしか師匠は言ってくれないから、「どうやってやるんですか?」と聞けば「探しなさい」と。「え!?(教えてくれないの?)」って腹も立つわけで。
昔から伝わる「形(様式)」は口伝だから、途切れ途切れだったりして、話がつながらないこともよくありました。
修行中は答えが見えなくて、苦しくて、やめたくなる。逃げたかったんだよね。……けど、ずっと続けてきています。
やめたいと思ってもやめられないの。文句を言って、もう限界だ、もうダメだって思っていても、やめられなかった。不思議ね。
「やめるタイミングがなくて」と相談したら、師匠は「それは、やめるときではないからです。継続しなさい」って。
── 言うは易し、ですね。流鏑馬を続けることができたのは、何か理由があるんでしょうか。
上村 流鏑馬をはじめてから翌年に落馬事故があったのも大きいかなあ。私は落馬しなかったんだけど、馬に乗ってる他のひとたちがドコドコ落ちました。
ひどかったのが、馬に乗って弓を撃った瞬間に、鞍の両わきにさげて足を踏みかける鐙(あぶみ)に足が引っかかって、そのまま落ちて馬に引きずられた事故。
そのときはさすがに流鏑馬イベントをやめて責任を取らなきゃって思って。
だけど落馬した彼女は、その日の夜にお酒を飲んでるくらい元気で「もっと上手になってお客さんに恩返しがしたい。心配をかけたお客さんたちには、来年私が元気に馬と走ってる姿を見せたいから」って言ってくれたのね。
その言葉を聞いたときに、もっと安全で楽しい流鏑馬ってなんだろうと探し始めたんです。
上村 そんなこんなで修行を終える最後に、師匠が「ひと山越えるんだったら馬だな」と、一頭の馬を譲ってくれて。
上村 それが静御前(しずかごぜん)という馬なんだけど、その馬と出会ってから、「人馬一体、一つの塊」「馬との呼吸を整えること」だとか、それまでのさまざまな教えを理解できるようになりました。
── 「見えた!」って、伝統を掴んだ瞬間も覚えてますか?
上村 十和田乗馬倶楽部には江戸時代の和鞍があるんだけど。
上村 この和鞍で馬に乗ったときにとっても乗りにくくて、師匠から平安鎌倉時代の鞍のレプリカを借りて乗ったんです。
そうしたら黙っていても勝手に鞍が股下を滑って、乗馬中に足でバランスをとらなくても揺れを感じずに弓を射る姿勢を保てたの。
それを体験したときに、これだ!これが和式馬術の「立透かし」だ!って思った。
上村 本物の馬と道具がないと、本物の言葉(様式)は体現できない。
日本伝統の騎射の技を残すために、私たちは「やり方」「考え方」「道具(馬具や馬装など)」をセットで伝えていかなきゃならないんです。
覚えているひとがいて、継承される
上村 でね、私みたいに伝統を学ぼうと思っても「①形」「②やり方」「③考え方」の3つの要素のどれかが欠けていると、悩んだり途中でやめてしまったりするひとたちがいたから、ちゃんとした資料が必要でした。
せっかくだから情報を集約しようと県外にいる関係者とも協力しながら、今年は流鏑馬の教本を発行したんです。
上村 この教本には「①形(様式)」「②やり方」はもちろんのこと、「③考え方」のポイントを載せています。
十和田乗馬倶楽部に来るお客さんたちには「形」「やり方」「考え方」を分解して教えて、「もう一回やってごらん?」って伝えます。
人が育たないことには、次につながらないからねぇ。
上村 今いちばん考えているのは後継者の育成。
盛岡八幡宮の師匠が流鏑馬の「形」を覚えていてかつ実践できたから伝統はつながるのであって、このタイミングで私や仲間たちが流鏑馬をやめたら馬事文化の教本はあっても、間違った解釈になっていきます。
つまり伝統は覚えているひとがいないと継承されない。だから、大事なのはひと、だと思うなぁ。
── 十和田乗馬倶楽部が伝統を伝えていくうえで、大切にしていることはあるんですか?
上村 日々淡々と、同じことを繰り返しています。騎射(うまゆみ)の「形」と「やり方」を指導して、「考え方」を伝えて、生徒が悩んだら寄り添って。
上村 「ここはこうしてね」って丁寧に教えますよ。師匠と同じやり方じゃないから「やり方は自分で探してこい」なんて言わない。私はとっても優しいです(笑)。
「流鏑馬やってるのって大変じゃない? もっと楽な方法でおもしろいしお金にもなることがあるよ」って言われることもある。
自分に隙のあるタイミングでそういう悪魔が囁くと、心惹かれて、その道に行っちゃうかもしれないなって思うこともある。
けど、目先のいい話に振り回されないで淡々とやり続けると決めることによって、自分を振り回そうとするものは寄ってこなくなる。
頑固でもなく素直で。ブレないで淡々とやるだけよ。
文/小松崎拓郎
写真/菊池百合子
一部写真提供/十和田乗馬倶楽部
(この記事は、青森県十和田市と協働で製作する記事広告コンテンツです)
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