日本各地で、お茶を特産物として推す地域は、少なくありません。

けれど海士町の「ふくぎ茶」は別格。その名前、味、そして素材が木の枝というギャップから、一度飲んだら忘れられないお茶になります。ふくぎ茶がつくられているのは、島内にある「社会福祉法人だんだん さくらの家(就労継続支援B型事業所)」。施設長の本多美智子さんは、そんな不思議なお茶・ふくぎ茶に、商品開発の段階から向き合い続けています。

ふくぎ茶をいただきながら伺った本多さんのお話は、愛と熱量であふれていました。

身近すぎて地元の人は見向きもしなかった「ふくぎ茶」

── あっ、これは冷たいふくぎ茶ですね。いつもあたたかいお茶しか飲んでいなかったので、新鮮です。

本多 美智子(以下、本多) どちらでもお好みで楽しんでいただけますよ。クロモジの木と呼ばれる、クスノキ科の落葉低木樹で、和菓子のつまようじに使われている植物があるのですが、それからできるお茶です。ほんのりピンク色のお茶で、少しスパイシーな香りがします。鼻に抜けるような爽やかさもあって「島のハーブティー」と呼んでいるけれど、好き嫌いがはっきり分かれる味と香りだと思います。

ふくぎ茶の枝タイプとリーフタイプ
ふくぎ茶の木茶タイプとリーフタイプ

── いただいたふくぎ茶や商品化されているふくぎ茶は茶葉ですが、枝で煮出す方法もあると聞きました。

本多 そうです、島では枝で飲む方が馴染みがあるかしら。私もよく枝を取ってきて、やかんで煮出して飲んでいました。近所の方で、ベランダに葉を干している人もいましたよ。軽い傷や炎症に効果があるから、昔は五右衛門風呂に入れて使うこともありました。

「さくらの家」では、クロモジの木の枝を細かくしたタイプと、枝と葉をブレンドしたタイプ、それからティーバックタイプを、主につくっています。

── それくらい身近な植物のひとつだったのですね。

本多 地元の人達にとっては、あまりにも身近すぎていたのだろうと思います。島にたくさんのクロモジの木がありますし、そのへんに生えている枝を、ポキッと折って持ち帰るのが自然なことでした。ですから、ふくぎ茶をつくろうという話が出たとき「ふくぎ茶が商品になるの?」という疑問があがったくらいです。

クロモジの木
クロモジの木の葉。茶葉として使えるようこれらを粉末状にする

── そこを商品化に踏み切ったのは、どういった経緯があったのでしょうか。

本多 海士町にIターンで来た、後藤隆志さんが「ふくぎ茶はこの島の宝物だ」とおっしゃって、取り上げてくれたんです。それと同時期に、現在ふくぎ茶をつくっている「さくらの家」という就労支援事業所で、新しい事業を立ち上げようという話が持ち上がっていました。

「さくらの家」で働いているのは、障がいを持った人たち。仕事内容はいろいろありましたが、ほとんどが委託された仕事で、お給料も安定しませんでした。社会に出て自分の力で働いてお金を稼ぐということは、彼らのモチベーションになります。でも、仕事がないなら自分たちで何とかするしかない。そんな時、ふくぎ茶をつくる仕事の提案をいただいて、まずはやってみよう、ということになりました。

さくらの家
さくらの家

本多 予算もないし、私も商品開発なんて素人同然です。何もかもがゼロからのスタートでしたが、港のお店のスペースにいくつかお茶を出荷することができ、そこから少しずつ生産量を増やしていきました。今では年間で9,000から1万個のお茶を販売できるようになっています。

お茶づくりのキモは「検品」!

── ふくぎ茶づくりというのは、具体的にどんな仕事内容なのでしょうか。

本多 すべて手作業なんです。まずはお茶の枝を山から取ってくることから始まります。そして枝と葉を仕分けして、葉を粉末にする前に検品します。自然のものなので、ホコリとか虫が葉の中に入っていることがありますからね。その後、粉末状になったものを、袋に詰める前にもう一度検品します。

ふくぎ茶ができるまで
葉と枝を仕分けしているところ

本多 生産スピードを上げることを考えるなら、何度も検品をするのは手間です。でも、ふくぎ茶の生産をするにあたって、いろいろな会社の運営方法や生産工程を勉強したところ、検品は一番大切だということに気づきました。おかげで、島生まれのハーブティとして、ふくぎ茶の品質が信用されて、いろいろなところから取り寄せの注文が来るようになりましたよ。

── 手間暇を惜しまないからこそ、「ふくぎ茶」の魅力が伝わったのですね。

本多 本当に地道な努力の積み重ねでした。はじめは、ふくぎ茶を掘り起こしてくれた後藤さんとも、意見がぶつかることもありました。味を改善するために、毎日ティーパックタイプとリーフタイプを飲み比べていたこともあります。ふくぎ茶をつくり始めて7年。「さくらの家」では仕事に対する姿勢がずいぶん変わったと思います。

さくらの家
検品中のようす。余計なものが侵入しないよう、きっちり仕切られた部屋で行われる

── どんな風に変わったのでしょうか。

本多 ふくぎ茶は、海士町発の大切なブランドのひとつです。その価値を背負っているのだということを、働いているみんなに分かってもらえるようになりました。職人のような意識が芽生え始めたのではないかなと思います。

「さくらの家」は自分らしく働ける場所

── 本多さんが「さくらの家」と出会ったきっかけは何だったのでしょうか。

本多 13年くらい前かな、私の子どもが保育園の入園前の時期、仕事を探していたら中学の同級生が「さくらの家」で働いていて、私に合いそうと教えてくれたんです。「さくらの家」でも小物をつくったりミシンを使ったりして仕事をすると聞いて、手芸が好きだったから私でもできそうだなと思ったんです。障害のある人たちが働いていると聞いても、それには特に気になりませんでした。

── その頃の「さくらの家」はどんなふうでしたか?

本多 初めてここへ来て印象的だったのが「もっと自分らしさを出せばいいのに!」と思ったということ。障がいの有無に関わらず、人一人として性格の違いや好き嫌いがあって当然です。少しは配慮が必要なこともありますけれど、あとは本当にふつう。

こんなことはしてはいけないとか、周りはこういう接し方でないと駄目だとか、関係ないんです。周りにいる人は、できるかできないかを決め付けるのではなく、自分たちでチャレンジする環境を整えてあげることと、できなければそれを認めてあげることが大事だと思います。

さくらの家の本多さん

本多 なかには甘えたりワガママを言う人もいます。でも「さくらの家」では、仕事はきちんとやること大事にしていますから、「ちゃんとやれーい!」と、喝を入れることもありますよ(笑)。

── 価値観を押し付けて特別扱いしたら、いっしょに仕事はできないですもんね……。

本多 そうそう。お茶をつくる作業だって、傍から見たら「このやり方のほうが手っ取り早いのに」と思うような方法で仕事をしている人もいるでしょう。でもそれは、本人にとってベストな仕事の仕方。だったら、どんなに非効率でも、私たちは無理に変えようとしません。

人間が組織やチームを組んで生きていく上で、居場所って誰にでも必要じゃないですか。それは障がいがあるかどうかで違いはありません。自分はここに必要とされているという意識が、よりモチベーションを高めてくれますし、場の雰囲気としても仕事がやりやすくなります。「ふくぎ茶は海士町の特産品やけんね。それをつくっているのは自分たちだよ」と伝え、やりがいを感じてもらえればな、と思っているんです。

ふくぎ茶の茶葉

Uターンだからこそ分かる視点を活かして

── 本多さんご自身で、「さくらの家」に入る前と後で変わったことはありますか?

本多 「さくらの家」に入る前後というよりは、海士町にUターンしてきたことで、外から海士町がどう見られているのか客観視するのを忘れないようになったし、なるべくいろんな人の意見を聞き入れるようにしようという意識になりましたね。

私は隠岐諸島の西ノ島町というところで生まれ育って、高校進学と同時に海士へ出てきました。そのあとは勉強のために奈良へ出て、神戸で就職し、結婚を機に海士町へ戻ってきたんです。

── 海士町へ戻ることは初めから考えていたのでしょうか。

本多 なんとなく、という感じです。私たちの世代は「島のために」「海士町に戻りたい」という意識が一番希薄かもしれません。島外のほうが魅力的に見えた世代だと思いますし、一度外で仕事を持ったら、海士町へ戻ってくる理由がありませんしね……。

さくらの家の本多さん

本多 だからなおさら外の視点を持つことの大切さを感じるし、閉鎖的にならないように私自身が島の外へ、ふくぎ茶を持って行って宣伝することもあります。活動の幅は広がっても、ふくぎ茶への想いは変わらない。「さくらの家」のみんなも、本気で取り組んでいますからね。

── おいしいハーブティの背景には、本多さんたちの熱意があったのですね。

本多 一度飲んだら、忘れられないってよく言われるんです。たぶん木の枝からできていると言われると、インパクトが強いんでしょうね。

ただ、「さくらの家」で働く人たちも、島民と同じでこれから高齢化していきます。ふくぎ茶がご好評をいただいているからこそ、これからも長くつくり続けたい。そのためにも何かを変えないと……それが新しい方法なのか人なのか、まだ分かりませんけれどね。大量生産できるお土産品というよりは、島の人たちの手作りのお茶として、より愛されるようになるよう、みんなと一緒に本気モードのままがんばりますよ。

お話をうかがった人

本多 美智子(ほんだ みちこ)
隣の島西ノ島町で生まれ育ち、高校の時に海士町に越してきました。実は、当初育った地を離れるのが寂しくすごく嫌で泣きながらの引っ越しでした。(笑)海士が嫌いでとかではなく……住めば都といいますが、実感しています。卒業後は、奈良県の和裁の専門学校に行き、神戸市で就職結婚を期にU帰省し、自宅で和裁の仕事をしていました。その後、仕事は辞め育児に追われる毎日を送っていました。子どもが保育園に通い始めたことをきっかけに、今の職場に勤務し11年となります。子供のクラブ、部活などの応援に、どこまでも駆けつける事が一番の楽しみです。ただ、子供達が大きくなり、そんな場が少しずつ減ってきて少々さみしくもあります。お酒を飲むのが好きで、飲み会大好きです。休みの日は暇があれば、自宅にて飲み会しています。

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