「『HEYタクシー!』と手を挙げたら、馬タクシーが停まる。そんな場所にできたら、楽しいよね」
日焼けした肌にポニーテール。白い歯が笑顔からにかっとこぼれ落ちる、頼りがいのある男性。豊かな自然に囲まれた、岩手県遠野市綾織地区で16代続く農家の跡取り、伊勢崎克彦さんは、一度東京で働いた後、Uターンしてこの地に戻り、今は妻のまゆみさんと、3歳になる息子の歩くんと、3人で暮らしています。

伊勢崎克彦さんご家族
伊勢崎克彦さんと、妻のまゆみさん、息子の歩くん

「地域の未来なんて考えたことがなかった」と言う彼が、「馬と暮らす地域」、そして「里山」を志すに至った理由とは? 聞けば聞くほど惹きこまれていく、伊勢崎さんの話に、少し耳を傾けてみませんか。

馬と一緒に暮らしたい

もともと、馬が好きでした。

もし僕(伊勢崎)にお金があったら、馬主になるとか乗馬を楽しむとか、いろいろと方法があったのかもしれません。でも僕の家は息子で17代目になる農家ですから、自然と選択肢は遠野の地にもともと根付いていた「馬と暮らす」、つまり、農業や林業を馬と一緒に営むというスタイルになりました。

伊勢崎さんの馬のテラ
伊勢崎さんのご自宅で一緒に暮らしている馬の「テラ」
除草をしながら馬のえさを作る伊勢崎さんの様子
田んぼの周りの除草をしながら、馬のえさを作る

農家にとって、馬と暮らすことは、何も特別なことじゃありません。馬に限らず牛などの草食動物たちが農業で活躍している姿は、かつては日本のあちこちで見られた、普通の風景だったと思います。

でも、今は誰もやらない。少なくとも、この土地では、ほとんど見られません。

循環する地域の暮らしには、草食動物が欠かせない

伊勢崎さんの描く岩手県遠野市の循環する里山の暮らし
伊勢崎さんの描く「岩手県遠野市の循環する里山の暮らし」(出典:東北食べる通信

草食動物がいると、無駄がなくなり、地域のなかでエネルギーや人と自然の営みが循環していきます。

特に馬は働き者だから、田畑を耕す「馬耕(ばこう)」や、森に入って木を切り出す「馬搬(ばはん)」など、自然と生きる農家の暮らしを、さまざまな場面で支えてくれるパートナーとして活躍してくれるんです。田んぼ周りの草刈りをしたら、それは馬のえさになるし、馬の排泄物は肥料に活用できます。

でも、これらは機械や科学の力で代用できるし、しかも早くて便利。だから伊勢崎家も含めた、地域の農家はみんな、機械化していったんだよね。

岩手県遠野市で暮らす伊勢崎さん

機械化することは、短期的に見てすぐに利益を獲得できるし効率的です。でも長期的に見たら持続可能な方法だとは、言えないなと思ってね。

僕は子どもがいるから尚更強く思うのかもしれないけれど、「次の世代に美しい自然を受け継いでいくためにはどうすればいいのか」ということを考えた時、やっぱり「このままではいけない」と思ったんです。

綾織地区の田畑をすべてオーガニックに

「じゃあ、どうすればいいんだろう?」と考えても、いきなり地域全体を変えることは難しい。

そこで僕は、まず2008年に自分の家の田畑を自然栽培、今風に言うとオーガニックに変えてみることにしました。オーガニックだなんて言うとおしゃれに聞こえるかもしれないけれど、でもずっと昔の農業は、全部オーガニックだったはずです。

慣行農法でなく、オーガニック農法で作物を育てるというのは、想像以上にお金がかかるし、手間もかかる。先に述べたように、除草も虫除けも、今はすべて機械や科学で省略できる時代。それらすべてをわざわざ人の手で行うんだから、始めた当初は「あいつは何やってんだ?」という目で見られたりもしましたね(笑)。

でも、僕と妻は、これが正しい道だと思っているから、今も続けています。

欲を言えば、僕はいずれ、この綾織地区一体の田畑を、すべてオーガニックに変えたいと思っているんです。「山谷川(やまやがわ)」と呼ばれる川から、自然が育む水の恩恵を受けているこの綾織を、まずは変えたい。

岩手県遠野市の綾織地区の様子
山谷川の恵みをダイレクトに享受する、岩手県遠野市 綾織地区

田畑と水と、山と馬搬。今変えずに、いつ変える?

田畑と向き合うことは、水と向き合うこと。水と向き合うことは、水源である山と向き合うこと。山と向きあえば、自然も、人も、地域も、未来も、全てがひと繋がりの関係性の中で生かされていることが分かります。

山は、誰か個人が所有していることが多いけれど、でも地域の人はみんな山の恩恵を受けて生きているわけだから、やっぱりそれは個人の問題ではない。自分の暮らしに関する課題を解決しようと思うと、もっと広い範囲ですべての物事が少しずつ重なり合っているのが分かってくる。

「馬搬の森」と呼ばれる山谷川の風景
「馬搬の森」と呼ばれる山の中を流れる水。冷たくて、美味しい

僕は、水を守るために山を守りたいし、山を守るためには、今は「馬搬」がいいと思っている。

60年前に日本で林業が盛んだった時代、今のおじいちゃん世代が一生懸命植林をしてくれた。でもその後、急激に木の値段が落ちて、今は人工的に増やされた杉林が荒れ放題……光が入らなくなった森は植生が変わってしまって、水の量は減り、結果として地域の豊かさが失われている。

この問題は、いま日本全国で起こっていることだと思うけれど、それを機械の力に頼って解決しても、短期的に良くなっただけで根本的には何も変わっていない。なぜかというと、重機を山に入れるためには道を切り開かなかければいけなくて、道を切り開いてしまったら山はさらに傷ついて、もうもとの形には戻らなくなってしまうから。

機械を使わずに、馬力を使って木を切り出す「馬搬」は、山を傷つけずに森を再生する唯一の道。地域の暮らしを再生したいのと同時に、僕は「馬搬」の文化と価値を、もう一度見なおしてもらいたいとも思っています。

「馬搬の森」伊勢崎さんが手入れをした区域は、光が差し込んで美しい景色に変わっている
「馬搬の森」伊勢崎さんが手入れをした区域は、光が差し込んで美しい景色に変わっている

1人ではできないから、仲間がほしい

僕は、今40歳。若い頃は、遠野市の魅力なんて分からなくて、都会に出て暮らしてみたい、趣味のパラグライダーを仕事にしたいと、意気込んで東京に住んだこともありました。

でも、家業を継ぐために地元に戻り、農業を営んで、水、山、馬がいる暮らしに目が向き始めた頃、ふとパラグライダーに乗りながら見た遠野市の景色が、本当に美しいと思えたことがあったんです。

山谷川のパラグライダーの丘に立つ伊勢崎さんと、遠くで遊ぶまゆみさんと歩くん

いや、ずっと綺麗だなとは思っていたんですが、水や山、馬のいる循環する暮らし、人の営みや歴史など、「すべてのことはつながっている」と、肌でも頭でも理解できた瞬間でした。

「いま」は「過去」からの贈り物で借り物だから、僕らが享受してきた世界は、ずっと昔から続いてきたように、僕たちも「次の世代」に受け継いでいかなければいけないと、心から思った。

そうじゃないと、きっとこれからの未来、地域は生き残っていけない。今のことだけ考えたら、ダメだと思うんです。ただ、理想ばっかり言っていてもお金は生まれない、ご飯は食べられないからね。この仕組みを成り立たせて、みんなご飯が食べられるようにする。そのために、まず自分から、変えていく。

もちろん、こんな壮大は話は、1人ではできません。でも仲間がいたら、もしかしたら10年20年後の未来では、今言っていることを実現できるかもしれない。

僕が目指したいのは、自然や馬、地域資源だけで自立できる、持続可能な地域の暮らし。今、志を分かち合える仲間が、少しずつ増えてきた。菊地夫婦や、敦子さん夫婦、若者が集う「on-cafe」や、「カーゴ・カルト」、「n-s」の松田くんもいる。「古屋弥右エ門」や「空市」もある。

少しずつ「遠野市のいま」を変えながら、最終的には、できたら日本国内だけじゃなくて、世界に向けて誇れる「日本で一番の里山」を目指したいと考えています。だって今、日本のどこの地域を見ても、本当の意味での「里山」って、たぶんまだないから、遠野からほんものの「里山」を取り戻したいと思っています。

「馬搬の森」にて、作業を終えた伊勢崎さんたち
「馬搬の森」にて、作業を終えた伊勢崎さんと、海外から視察に訪れた若者たち

お話をうかがったひと

伊勢崎 克彦(いせさき かつひこ)
岩手県遠野市綾織地区で農薬や化学肥料に頼らない自然栽培という農法で米や豆を育てる。農業と並行して、冬は山に入り、切った木材を馬で引き出す「馬搬(ばはん)」の技術を学びながら、豊かな水を田畑に運んでくれる命の源である山を良くする活動も行っている。どちらが欠けても成り立つことができない“食と自然”。馬と共に、地域の資源を最大限に活用した「自然を生かした暮らし」を目指す。
「風土農園」ブログ:フウドの日々暮らし

【岩手県遠野市】特集の記事一覧はこちら

岩手県遠野市マップ

岩手県遠野市の線路

(イラスト:犬山ハルナ