今、地域に入り、その土地に根ざした活動をする集団が増えています。国内屈指の地場産業集積地である福井県鯖江市を拠点に、活動から3年目を迎えたものづくりユニット「TSUGI」。
代表の新山直広さんは、なぜ「流通まで道先案内できるデザイナーになりたい」と語るのか? 未来の自分たちつくり手のためにアクションを起こした「TSUGI」結成までの道程を教えていただきました。
建築よりも空間の使い方や地域のコミュニティに興味を持った
── 「TSUGI」のご活動を教えていただけますか?
新山直広(以下、新山) 大きな事業は3つです。ひとつは地元のメーカーさんと二人三脚でおこなっている、デザイン・ブランディングの仕事。ふたつ目は自社ブランドの企画販売をしています。アクセサリーブランド「Sur(サー)」がそれに当たります。そして最後は、鯖江のものづくりを盛り上げていくために、ポップアップストアやイベントの企画をしています。
── 「TSUGI」が立ち上がる背景には、鯖江市で開催されている河和田アートキャンプ(*1)に参加したことがきっかけだそうですが、どうしてそのキャンプに参加されたのですか?
新山 河和田アートキャンプに参加した当時は、京都の美術大学で建築を学んでいました。ちょうど自分が大学4年生のときは、リーマン・ショック直前の時期。景気の先行き不透明で、かつ建築物が新しく建たなくなる時代にも近づいてきていることを感じていて。また有名建築家が美しい公共空間をつくっても、建てた後の運営がずさんで閑散としてしまうような事例も、多く見られました。
建築の仕事をするよりも、むしろ建築空間の使い方や地域のコミュニティに興味が移ってきて、河和田アートキャンプに参加してみることにしたんです。
(*1)河和田アートキャンプ:2004年に起こった福井豪雨で甚大な被害を受けた福井県鯖江市河和田地区で、地域の災害支援の形で河原田アートキャンプがスタート。同地域の子どもたちが、災害のために遊ぶところがなくなっている状況で、「遊べる場を提供しよう」というコンセプトを持つ。
── 河和田アートキャンプで、今の活動に紐づくような経験はされましたか?
新山 ぼくが生まれ育ったところは大阪の吹田市という、郊外のベッドタウンです。河和田という田舎の集落にはじめて足を踏み入れて、自分の生まれ育った場所と180度違う環境だと感じました。ちなみにぼくがキャンプに参加した2008年は、アートキャンプがはじまって4年目くらい。そのときには水害の復興も完了していて、災害復興支援から“アートがいかに地域に還元できるか”というプロジェクトの体制に移行した時期です。
地元の子どもたちがすごく明るくて素直で、みんな挨拶してくれたり、地元のおばあちゃんたちがとても元気だったり。そしてなによりも河和田は越前漆器の産地。さらには眼鏡工房も多く点在する地域で、まち全体が大きな工房のようで新鮮でした。工房をまわってつくり手さんにお話を聞くことで「もの」がつくられる背景や、つくり手の思いを、キャンプに参加してはじめて知ったんです。ものづくりが暮らしに根付いている町だと感じました。
── その後、就職はどうされたんですか?
新山 河和田アートキャンプに参加したことで、建築の仕事をするよりも、むしろ建築空間の使い方や、地域のコミュニティをつくることに興味が移ってきました。そしてこれからは地域やコミュニティの時代だと思って、卒業と同時に河和田アートキャンプを運営している会社に就職することになりました。
流通まで担えるデザイナーになりたい
── 就職と同時に移住されたんですね。
新山 移住して、オフィス兼住居として築100年以上の古民家で暮らしはじめました。仕事としてはアートキャンプを中心とした地域づくりプロジェクトの運営がメイン。ただ、就職して1ヶ月で挫折しましたね。というのも「これからは地方の時代だ!」と鼻息荒く移住したのはいいものの、新卒の若僧ができることなんてたかが知れていて。
仕事のできないダメ社員でした。地域や行政とのコミュニケーションをはじめ、社内での意思疎通さえもうまくいかず、何をやっても空回り。完全に自信をなくしてしまいました。このとき思ったのが「自分は地域づくりには向いていない」ということ。
── それから「TSUGI」を立ち上げるまでの経緯をうかがいたいのですが、これまでの仕事の経験のなかで、いくつかターニングポイントはありますか?
新山 伝統工芸の売り上げが年々減少していくことで、行政からの委託で「越前漆器」の産業調査に携わったことが大きなターニングポイントでした。1年目は職人さんの工房や問屋さんを100軒ほど回って、産地の現状や未来への展望を聞かせてもらいました。2年目は実機を売る現場を知るために、小売店や百貨店、セレクトショップに足を運んで、越前漆器がどれくらい売れるのか調査させてもらって。
── その結果、どんな課題が浮き彫りになりましたか?
新山 越前漆器が全然売れていなかった現状を目の当たりにしました。とはいえ、職人さんたちは諦めていないし、時代に合わせたものづくりができれば、鯖江は再興すると思いました。鯖江はものづくりと生活が表裏一体というか、本当に親和性が高いんです。地域を持続可能な状態にするためには、ものづくりを元気にしていかなければどうにもならないと思って、産地に対して自分は何ができるのか考えた結果、デザイナーになろうと決めました。
── なぜデザイナーを目指そうと思ったのか教えてください。
新山 鯖江には腕利きの職人さんが多いのですが、売り上げは右肩下がり。いいものをつくっても、価値がお客さまに対して伝わらないと売り上げにならない。だからこそ伝え方が大事だと思い、デザイナーになろうと思いました。
ただ、鯖江はデザイナーという職業に懐疑的な方が多かったんです。「なんでだろう」と聞いてみたら、バブルのときに補助金事業で有名デザイナーとコラボした商品づくりが盛んだったらしく、その商品は全く売れなかったのに、デザイナーだけが注目されたみたいで。それを聞いて、ぼくは流通まで道案内できるデザイナーになりたいと思いました。
── 流通のネットワークを担えることはとても大事ですよね。
新山 そう、でも自分は販売ルートを持ち合わせていなかったので、鯖江を出て、東京か大阪に行こうと思ったことがあります。流通のネットワークと消費者の動向を、しっかり鯖江に持ち帰りたかったんです。
鯖江の未来を他人まかせにしない。自分たちで盛り上げていこう
── 地域づくりを主とする会社を退職されてからは、市役所のほうに勤めるんですね。
新山 鯖江の市長からいきなり電話がかかってきて、「新山、お前東京か大阪行くらしいなあ。でも、鯖江に移住してきてまだ何もやっていないだろ」と言われまして。市長いわく「鯖江はものづくりの町として技術はあるけれど、伝える力が弱い。もっといえば行政にもデザインが必要」と。そこで、ぼくに嘱託職員扱いで市役所内のデザイナーとして働かないか、とオファーしてくれたんです。
市長には感謝しきりです。都会に行くのを踏みとどまり、大阪にいる彼女(現在は奥さん)に頭を下げて、鯖江に来てくれとお願いしました。
── 市役所内デザイナーとしての初仕事はどのようなものですか?
新山 はじめに「鯖江メガネファクトリー」という、鯖江のメガネをPRするサイトの全面リニューアルおよび、企画や取材、運営をしていました。
── 市役所内デザイナーとして働き出してどうでしたか? 民間企業で働くのとは別のメリットがありそうですが。
新山 市役所は浅く広いネットワークを持っている職場だったので、広くいろいろなことを学ばせていただきました。鯖江はメガネの認知度が高まってきたり、ブランディングを積極的に取り組んでいたり、デザインの重要性がちょっとずつ浸透してきていると感じましたね。
── 新山さんにとっては地域の情報整理をしていた期間だったのでしょうか。
新山 鯖江の強みと弱みを、市役所で働きながら感じることができた期間だと思っています。もともと福井は、下請け産業が主流。いわゆるOEM生産といって、クライアントから注文されたとおりのものを生産する。会社の名前が外に出るような体制ではなかったので、ブランド力が弱く、その結果価格競争に巻き込まれたり、人材育成ができなかったり、今の時代に合わせたものづくりができなかったりと、悪循環が生まれていて。
一方で新しい動きも出てきました。ちょうどぼくが市役所にいるタイミングで、移住してくる人たちが増えてきまして。河和田アートキャンプで同じ釜の飯を食べた仲間たちが、メガネ職人や木工職人として、鯖江に移住したんです。
── そこで、いよいよ「TSUGI」が結成されるんですね。
新山 ものづくりが斜陽産業になっていくなかで、「ぼくたちが一人前になったとき、果たしてこの町の産業は残っているのかな?」とみんなで話をしました。ものづくりが衰退していくならば、先回りして今のうちから鯖江を盛り上げる状況をつくっておけば、自分たちが一人前になったときに大丈夫だよねって。
「鯖江がおもしろくない」と、地域のことを他人まかせにするのなら、自分たちで仲間を募ってアクションを起こせばいい。そのときみんなと話してあって結成したのが、「TSUGI」というチームだったんです。
──続きます。
お話をうかがった人
新山 直広(にいやま なおひろ)
代表 / デザインディレクター。1985年大阪府生まれ。京都精華大学デザイン学科建築分野卒業。2009年福井県鯖江市に移住し、(株)応用芸術研究所にて越前漆器の産業調査を担当した後、鯖江市役所にて「鯖江メガネファクトリー」の運営をはじめ、地場産業の広報・販促物のデザインを担当。鯖江市役所在職中の2013年、移住者たちとデザイン+ものづくりユニット「TSUGI(ツギ)」を設立。2015年に法人化し、代表に就任。デザインディレクターとして地域や地場産業のブランディングおよびディレクションを手掛ける。