福祉という言葉に、あなたはどんなイメージを抱きますか? 必要なもの、大切なこと、自分にはまったく関係ないこと、いずれ自分にも関わってくること……。思い描くイメージは様々でしょうが、福祉はもしかしたら人生を少し豊かにしてくれるものかもしれません。

海士町の福祉事務局長の片桐一彦(かたぎり かずひこ)さんは、この島で生まれてこの島で死ぬために、人と自然とが情緒的な繋がりを持つことが大切だといいます。片桐さんの目指す、これからの島の福祉について伺いました。

「人は土から離れては生きられない」福祉との出会い

── 片桐さんと福祉の出会いを教えて下さい。

片桐 僕が福祉と出会ったのは、1995年の阪神大震災でのことです。親が教員だったこともあり、僕も教員を目指して東京で勉強していたのですが、本当にやりたいことが分からず、モヤモヤしていた時期でした。自分に何かできることはないのかと考えて、1か月ほどの現地ボランティアに参加した結果、自分が生きる意味のようなものを知った気がして、将来は教員ではなく福祉の道に進みたいと思うようになりました。

片桐一彦

色々と今後の人生を思い悩んだのですが、結局教員にはならず、不登校の生徒が暮らす福祉施設等でボランティアを始めました。そこではたくさんのことを学ばせていただいたのですが、海士町にUターンする直接のきっかけになったのは、生徒と一緒に観たジブリ映画『天空の城ラピュタ』でした。

── なかなかメジャーな映画ですね。

片桐 もちろん僕も何度も観たことがある映画です。でも、主人公の「人は土から離れては生きられないのよ」というセリフが、その時はなぜか耳に残ったんです。「あれ? 俺、今まで土と生きたこと無いな」と。

福祉やボランティアという仕事を生業にするためには、土と生きる経験が必要なんじゃないかと直感で思って、父の故郷であった海士町に向かいました。今から19年前のことです。

今まで見てきた世界とは違う場所にヒントがあった

── 島に戻ってきた際は、やはり福祉関係の仕事に?

片桐 はい。島の福祉施設がちょうどオープンする時期だったこともあり、オープニングスタッフとして働き始めました。東京で学び、被災地でボランティアをし、そして福祉施設で実地経験を積んだという自負から、頭でっかちな若者だった僕は「島の人はお困りでしょう、僕が助けてあげます!」という気持ちで、まずは島内のお年寄りの家を一軒一軒回り始めました。

でも、いくら「困っていることはないですか」と聞いても、答えは「困ってないです」とそればかり。

── 戸惑ってしまいそうですね。

片桐一彦

片桐 ええ。福祉活動をしたいのに、島の人は困っていない。僕にできることは何もないじゃないか、と思いました。

途方に暮れながら島を歩いていると、一人のおばあちゃんが「何してるんだ」と声をかけてくれました。「僕にはできることがない」と言うと、「草でもむしっとけ」と言われました(笑)。素直な僕は「草刈りをしに島に戻ってきたわけじゃないんだけどなぁ」と思いながら草刈りをすることにしました。すると「きゅうり持っていけ」と野菜をもらいます。翌朝、また草をむしっていると、「暇なのか?」と聞かれ、「いや暇なはずはないんですが……今は暇ですかね」と返すと、「じゃあ漁の網直すのを手伝え」。網を直すと、今度は「魚持ってけ」。

そんなことを繰り返していたある日、「そういえばお前、あいつの家に行ったか? あの家はもう年寄りばっかりで、大きな家具が動かせなくて困ってるって言ってたぞ」と聞いたんです。

── わらしべ長者みたいですね。草むしりから、福祉に近付いてきました。

片桐 家を訪れてみると、そこは以前、困っていることはないと答えたおじいちゃんの家だったんです。「家具を動かせなくて困っていると聞きまして…」と言って家の中に入れていただくと、それまで一人暮らしだと思っていたおじいちゃんは、実は奥様と二人暮らしをしているということを知りました。しかも彼女はずっと寝たきり。背中には床ずれのような傷がびっしりとできていました。

「家具どころじゃないよ! おばあちゃん、困ってるじゃん!」と、僕は衝撃を受けました。

生きる上で大切なのは「人と自然、情緒的な関わり」

── 片桐さんはその方の「困っていること」を、その時初めて知ったんですね。

片桐 はい。僕はこの時、初めて「福祉や医療は、人間関係が成り立った上でないと機能しない」ということに気が付いたんです。暮らす場所が島であれ都心であれ、信頼関係がないうちは、例えそこに問題があったとしても、僕には分からない。自分が見ている世界とは別のところで起こっている問題ですから、今持っているものさしだけでは知ることができないんです。まさに「灯台もとくらし」ではないけれど、物事の見方が変わった瞬間でした。

片桐一彦

── その出来事から、何か行動や意識が変わりましたか?

片桐 福祉を考える上で「人と自然との関わり」を調べるようになりました。例えば庭の草はきちんと手入れされているか、この家の人は旬の食材をちゃんと食べているのか。そういったことを気にするようになると、見えるものが変わってきます。ここは島ですから、一次産業と親しい場所です。牡蠣やわかめが旬の時期であれば、地元の漁師さんがとった新鮮な食材を食べなければ嘘です。

旬の時期に適当な食材を食べていないということであれば、それは「人と自然との関わり」が上手く言ってないサインです。もちろん、絶対に食べる必要なんてどこにもないし、無理にでも食べろなんて強制をしてるわけじゃない。でも、毎日土や草と触れ合って、自然の恵みを意識して暮らし、人と関わる。そういった情緒的な繋がりのどこかが上手くいっていない人は、何か問題を抱える傾向にあると考えるようになりました。

この島で、新しい福祉を作りたい

── いま、片桐さんが挑戦している海士町の福祉構想の原点は、ご自身の体験にあるんですね。

片桐 はい。僕が今作りたいのは「人と自然との情緒的な繋がり」をベースとした、新しい福祉の仕組みです。島で生まれて、島で死ぬために、人生を最期までより楽しく生き抜く方法を探っていきたいと思っています。

福祉施設がない島、新しい死生観、未来を担う子どもに対する、島一貫の福祉教育……。やれることはたくさんある気がしています。でも、新しいことを始めるのは簡単じゃありません。だから、そのためにはまず向こう5年間で仲間を作ることが必要だと思っています。島全体をフィールドにして学ぶというこの島の高校生の教育と同じように、福祉も島全体で考えていく。僕は今、色んな人と一緒に協働しながら、15年という期間でこの島の福祉を変えていきたいと思っています。

福祉は決して難しいことじゃありません。暮らしの中に溶け込む、情緒的な繋がりを持った遊びなんです。

【島根県海士町】片桐一彦の「島で生まれて島で死ぬ、これからの福祉」 – 後編 –

お話を伺った人

片桐 一彦(かたぎり かずひこ)
東京都生まれ(42歳)。大学在学中に阪神淡路大震災が発生し、ボランティア活動を行いながら社会福祉協議会・ボランティアセンターに関わる。フリースクールの教員を経て、海士町に移住。社会福祉協議会でケースワーカーとして海士町の高齢者・障がい者との相談対応を勤める。平成19年、同社会福祉協議会の日本で一番若い事務局長に就任。最近では、海士町の地域・福祉の未来を創り出すために、ワールドカフェやインプロなどさまざまな対話手法を積極的に用いて【福祉 × ◯◯】構想で「最期まで自分のやりたいことができる島(海士の新しい死生観)」目指して活動している。

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