「灯台もと暮らし」編集部の立花は、2017年の春から地域おこし協力隊として北海道下川町へ移住することになりました。
そのための顔合わせに伺った、2017年1月16日。移住者の先輩であり下川町が森と暮らす町として自立する、その流れに勢いをつけた、奈須憲一郎さんにお会いしました。
“森と暮らす”というキーワードは、文字だけ見るとどこかほっこりしたファンタジックな絵が浮かびます。けれど、わたしが見た下川町と町の資源に光を当てた奈須さんの視点は、もっと地に足のついた森との付き合い方を形にしたものでした。
下川町が森と暮らす町になるまで
── 奈須さんは1999年に下川町へ移住されたと伺いました。
奈須憲一郎(以下、奈須) はい。移住してもう18年になります。
── 移住者の先輩ということですね。
奈須 そうですね(笑)。
── 奈須さんは今町議をやられているとのことですが、具体的にどんなお仕事をされているのでしょうか。
奈須 行政が行う事業の内容を、実行できるかどうかを精査したりしていますね。
── 移住してから、役場にお勤めになるまで、どういう経緯があったのか移住したきっかけから教えていただけますか。
奈須 最初に下川町へ訪れたのは、北海道大学の大学院の研究のためでした。大きく言うと、環境問題について勉強していたんですが、その中でも持続可能な社会をつくるにはどうすればいいかということに興味がありました。
奈須 生活に必要なエネルギーや食料を自給できる自立したエリアが増えれば、資源の奪い合いもなくなって、世界が持続可能な社会になるだろうというビジョンがあって。そのためには、食料やエネルギーの基盤になる農山村がしっかりしなければいけない。ところが日本は農山村が過疎化してばかりで食料自給率も低いですよね。一方ヨーロッパでは「農山村もちゃんと大事にしよう」という動きが活発だったり、グリーンツーリズムが既に確立されていたりする。
── もとくらの取材をしていると、グリーンツーリズムに注目されている方に多く出会います。
奈須 日本の現状を考えた時、過疎化が進んでしまっている農山村が自力で持続可能な社会を構築し直すのは難しい。だったら地域そのものが、都会からひとが移り住みたくなる場所になる必要があると考えました。ただの数合わせの移住ではなくて、都会から農山村へ人々が移り住むことによって、地元の人々には見えなかった資源の良さが再評価されて、それが都会に情報発信されたりモノとしてリニューアルして送り込まれたりすれば、経済的に活性化されるだろうという仮説があったからです。
じゃあ、実際にそういうひとの動きが起こっている地域はどこだろうと探した結果、下川町に行き着きました。
── 奈須さんが大学院生の頃から、すでに下川町にはそうした動きがあったということでしょうか。
奈須 はい。下川町は当時から移住してきた方がたくさん住んでいました。そういう方々にインタビューして何が起きているかを分析しているうちに、「ここなら自分が思っていることができそうだ」と思い、僕自身も移り住みました。今、ようやく都会への発信のための政策が動き出しているところです。
── 地元の方にインタビューして分かった下川町らしさや、移住者が多い理由はなんですか?
奈須 下川町は昔から林業が根幹の町でした。現在も森の8割近くは国有林です。高度経済成長でリゾート開発が主流だったり環境問題に言及するのがはばかられたりした時代でも、粛々と林業を守ってきた歴史があります。当時の町長が、町有林を基盤とした循環型の森で資源を生み出し、経済を回して行くぞという覚悟とビジョンを守りきったと聞いています。
森を守れば資源が生まれる。そうすれば経済的にも持続可能で町として自立できる。そのサイクルを守り続けてきた。だから、昔から環境問題や持続可能な社会に関心があるひとや、高度経済成長時の日本の産業に疑問を持っていたひとが下川町に移り住み始めていたのだと思います。
── 大量生産大量消費の時代に、その場限りのエネルギーを手に入れるのではなく、森を育て木を切り、経済を生み出すという長いスパンを耐え抜いてきた町だということですね。
奈須 そうですね。ようやくそうした長年の蓄積が評価されて、環境未来都市という国からの認定を受けたわけですが、この出来事で、より地域のひとの意識は変わったと思います。「環境では飯は食えない」という声が主流だったのが、持続可能な社会というゴールを先導する役割を引き受けることで経済も回っていくという共通認識が、ある程度根付いてきたのかなと思いますね。
大好きだった山が、きれいさっぱり無くなった少年時代
── 奈須さんご自身が、環境問題だったり森について研究するようになったりしたのは、どういうきっかけがあったのでしょうか。
奈須 僕は愛知県名古屋市の生まれなんですが、自分の住んでいたところが埋立地で、完全コンクリート固めの中で暮らしていたんですね。ただばあちゃんの家が、名古屋の中ではまだ緑が豊富な地域にあったから、そこに行って虫取りをしたり、走り回ったりして遊んでいたんです。でも僕が大きくなるごとに、見慣れたその緑色の風景にだんだん住宅だとか混じるようになって、中学生になった頃には山があったところがぜーんぶ更地になって、山がまるごと消えちゃったんです。
── 山が消えるって……。
奈須 それがすごくショックで、環境問題に興味を持つようになりました。さらに僕が高校生の時には、地球を覆っているオゾン層に穴がある、いわゆるオゾンホールが見つかったことが話題になりました。そのオゾンホールから紫外線が漏れてきて、白血病や皮膚がんになるというニュースを読んだんですね。当時、僕は高校三年生くらいの多感な時期だったんで、真に受けて「俺がなんとかしなくちゃ」って思って(笑)。
でも大学に入って勉強するうち、どうやら科学技術で起きたものを科学技術でどうにかしようとしても、また新たな問題が起きてイタチごっこになってしまうということが分かったんです。そこで、環境問題に直接アプローチするよりも、社会を良くして根本的な解決をしなければという思いに変わりました。
── それで研究職ではなく、暮らしや社会の仕組みを考える側の行政に入られたんですね。
奈須 はい。ただ、1999年に役場入って、4年経ってから一度辞表を出したんです。その時に当時の町長から「特別なポジションを用意するから残らないか」って提案をいただきました。そのポジションというのが「森林活用係」という僕一人だけの係。
── 何をする部署だったんでしょうか?
奈須 森林を使った新しい事業を考える部署ですね。その頃、プライベートで森林療法とか森に触れてもらうイベントを企画したりするボランティア団体みたいなことをやっていたんです。役場での経験を経て、その活動により力を入れるために「事業として立ち上げよう!」ということになって、役場から離れてきちんとした経済活動をやってくために「NPO法人森の生活」を設立しました。それが、2005年のことです。
奈須 今は麻生君という若者に託して、僕自身は森の生活を離れました。2011年の選挙で議員になり、森の生活の仕事もしていたんですが、NPOとして大きくなってくると、議員の僕が代表だとややこしいことが起きる可能性があったので、2013年に麻生君に引き継ぎました。あとは、その頃2人目の子どもを授かったのもタイミング的に重なったんです。今までは森という軸で仕事をしていたけど、子育てを中心軸に活動しようと思って、バトンタッチしました。そのあとは、仕組みづくりの方に直接携われる議員として2期目に至ります。
「わかっているひとだけやればいい」では世界は変わらない
── 研究を続けたいとか、立ち上げたNPOでずっと活動したいという思いはなかったのでしょうか。
奈須 下川が環境未来都市に指定されたのは2011年のことなんですが、個人で環境問題に対する意識を高めてライフスタイルを変えていくよりも、町単位でバイオマスエネルギーを活用して社会を変えていくほうが、スピード感が出るし僕が考えていることが実現するんじゃないかって感じたんです。
── どうしてそう感じられたのでしょうか。
奈須 僕自身も、環境に配慮して薪ストーブを焚こうとか、オーガニックなものだけ食べようとか、子育てもやりながら頑張ったんですけど、疲れてしまったんですよね。現代社会では「こうじゃなきゃいけない」というものに縛られるより、便利なものとの折り合いをつけながら暮らしていくほうがいいんじゃないかと思うようになりました。
実際、環境に対して意識が高いひとたちって本当に少数だと思います。じつはサイレント・マジョリティーと呼ばれる、あんまり発言しない人々が何を考えているのかを、僕は考えたい。
そのためにもすでに環境問題について詳しいひとたちの暮らしじゃなくて、ごく普通のひとたちの暮らしをしながら、接してみるほうが得るものが多いなと思ったんです。
── 今の暮らしの中で、どうやったらそういったサイレント・マジョリティーに当てはまる人々に環境問題に興味を持ってもらえると思いますか?
奈須 僕が大学で勉強していたモデルはドイツなどのヨーロッパ圏が多いんですが、彼らは環境問題の深刻さも理解しているだけでなく、例えばバイオマスエネルギーにしたほうが電気代を節約できるとか、そういった身近な経済的なメリットがあると実感できるから続けられているという部分があると思います。
下川町だけではなくて、全国的に環境にいいものを使うと長いスパンで見たときにメリットがありますよということは、じっくり伝えていきたいですね。
── 環境問題とか森林という軸は変わらずに、アプローチの仕方を変えてきて、今に至るんですね。
奈須 仕組みを整えるには、少なくとも過半数以上の意思決定が必要です。いくら理論的に正しいと分かっていることでも、「このひとの言うことなら信じてみよう」って信頼してもらえないと、何も変えられないんです。政治家として選んでもらって、「環境のことよくわからないけど、奈須さんの言うことなら良いんじゃないか」って思ってもらえたら大規模な変化を生めるし、そのほうが経済的メリットも体感しやすい。
でも「信頼されなくてもいい」「分かるひとたちでやっていけばいい」って排他的になると、環境について考えているひとたちというのは、ずっとマイノリティのままなんです。そうすると、大きな決断をしなきゃいけなくなった時に結局何も変えられずに、ずっとマイノリティのまま。でも、本当に世界を変えたいなら、僕自身の考え方を変えないとなと思って、行政やNPOを経験してきました。
── 奈須さんがそこまでまっすぐに、すぐに働き方やアプローチの仕方を変えられるのはどうしてなのでしょうか。
奈須 どうしてだろう……僕、真に受けやすいんですよね(笑)。先入観みたいなのがないから、常に目標に対する最適な解を探そうとしている気はします。だから途中で違うなと思ったらすぐ切り替える。多くのひとは過去の自分や、こだわってきたものに引っ張られるからそんなに大きく方針転換できないんだろうなあと思うんですけど。
今年は子育ても少し落ち着いたので、また新しく何かやりたいなと思っています。それが森と直接関わることなのかは、まだ考え中ですけどね。
(この記事は、北海道下川町と協働で製作する記事広告コンテンツです)
お話をうかがったひと
奈須 憲一郎(なす けんいちろう)
愛知県名古屋出身。1999年に北海道下川町に移住。森林活用や地域づくりのコンサルティング、ボードゲーム制作も行う。eggplant代表、下川町議会議員(2期目)。