子どもを育てながら、やりたいことに挑戦すること。
自身の「やりたいこと」を始めることで、家のこと、子どもと過ごす時間、学校の行事やあれこれをどうやって両立させていこう?
多くの働くお母さんたちは、「子育て」と「仕事・やりたいこと」のあいだで、何度となく揺れ動く経験をされたことがあるのではないでしょうか。
「やってみたい」気持ちと、「やっていけるかな」という不安。
始めるかどうか、いざ決めるのは自分だとしても、大切な決断であればあるほど、決断すること自体が怖くなったりもしてしまう。そんなとき、身近に応援してくれるひとの一言が大きな後押しになったりもして──。
今年の4月、奥会津昭和村に新たな拠点が誕生しました。「蕎麦カフェ SCHOLA」(以下、スコラ)は、38年の眠りから蘇った「喰丸小」の傍に佇む、2階建てのお家のような場所。
カフェという名でありながら、本格的な十割蕎麦を提供するスコラ。
店主の酒井由美さんは、昭和村のご出身。現在、4人のお子さんを育てる村のお母さんです。仕事と家事と育児を並行する酒井さんの中にあったのは、「蕎麦打ちを続けたい」という気持ち。
悩める彼女の背中をポーン!と後押ししたのは、他でもない旦那さんの持つ絶対の自信。そして「蕎麦を出せないならお店はやらない」と言ってしまうほどの、酒井さん自身の蕎麦への想いがありました。
酒井 由美(さかい ゆみ)
「蕎麦カフェSCHOLA」店主。昭和村出身。高校進学に伴い村を離れ、2000年にUターン。その後、からむし織の里に併設される「苧麻庵(ちょまあん)」で働き始め、知人の紹介で蕎麦打ちの機会を得る。途中、出産・育児を挟みながら、2018年3月まで「苧麻庵」で蕎麦打ちを担当。同年4月29日、「蕎麦カフェSCHOLA」をオープンさせる。
蕎麦打ちをはじめたきっかけ
── そもそも、酒井さんは、どういう経緯で蕎麦打ちを始められたのですか?
酒井 私は高校進学を機に村外で生活をしていたのですけど、26歳のときに昭和村に戻ってきました。それからしばらくして、からむし織の里に併設される「苧麻庵(ちょまあん)」という食事処を紹介されて、そこで働いていたんです。
苧麻庵では、昼食のメニューとして生蕎麦を提供していたのですが、当時は村内で3人の蕎麦打ち職人さんに打ってもらい、1箱単位で買っていました。
同僚と「買うのも勿体無いね」と話していたこともあって、「じゃあ試しに教えてもらおうか」と。その職人さんたちに交代で来てもらって指導を受けたことが、私が蕎麦打ちを始めたきっかけでした。
酒井 こう言ってはなんですが、やってみると「自分は蕎麦打ちに向いているのかも?」と感覚的に思いました。割とスムーズに習得できて、「蕎麦打ち好きだなぁ」って。
もともと昭和村では、昔から各家庭で蕎麦を打つ習慣もあるんです。私の母もよく自宅で打っていたので、小さい頃から生蕎麦を食べることは身近でした。
それまでお願いしていた職人さんに提供の断りを入れるのは、つながりを考えたときに「ちょっとなぁ」と思ったのですが、頼んでいた方たちも結構年配だったので、いつまでもというわけにもいかない。「じゃあ自分たちで打ってみよう」と、13年前の冬に習い初めて、春からは自分たちで打ったお蕎麦をお店で提供するようになりました。
打ち始めてみて、どんどん自分の思うように蕎麦を打てるようになっていき、食べに来てくれるお客さんに「おいしい」「お土産で持って帰りたい」と声をかけられるとすごくうれしかったですね。年越し蕎麦とか繁忙期は体力的にちょっときついんだけど、「やめたくない。ずっとやっていたいなぁ」って。自然と蕎麦打ちにハマっていきました。
「ここでやってみたらどう?」
── そこからどういうきっかけで、スコラを始めることになったのですか?
酒井 去年、喰丸小学校の改修工事が始まってしばらく経った頃、並行して建設を始めたこの建物で、軽食を提供するひとの募集を村で始めたんです。でも、締め切りを過ぎても応募するひとがいなかったみたいで。今年のはじめに、誰に飲食店をお願いするかと村の懇談会があって、そこに出席していた夫が、私に「お店をやってみないか」と話を持ち帰ってきたんです。
彼は前々から、いずれは私に自分のお店をやってほしいとずっと考えていたんです。私よりも旦那の方が「由美は絶対にやっていける」と自信を持っていて、2年前に自宅を建て替えたときにも、いずれお店にしてもいいように、1階部分を広めに設計していたくらい。ただ、仕事場も自宅も一緒では常に仕事モード。私の性格上、それでは気が休まるときがなくなってしまうような気がして、自宅でお店を開くことには積極的になれませんでした。
酒井 それからしばらく時間が経って、「ここでやってみたらどう?」と、今回の話を夫から後押しされたのです。
長く勤める職場を辞めてまで自分で始めるのであれば、それなりの理由がないと私は「うん」と言わないよ、と彼には伝えました。そうしたら後日、役場の担当の方が、保険屋さんかというくらいに分厚い資料を持って説明に来てくれて、そこで説得されました(笑)。
── 酒井さん自身のなかにも、いずれは「自分でお店をしてみたい」という気持ちはあったのでしょうか?
酒井 「やってみたいな」という気持ちと、「やっていけるのかな」という不安がありました。
勤めていたときは、ほんとうに忙しい忙しいの連続で、毎日、蕎麦のことばかり考えないといけないほど余裕がなかった部分もあって。いちばん下の子がまだ小学2年生なので、自分でお店を始めると決めたあとも、「いままで以上に余裕がなくなるのかなぁ」「勤めていた方が楽なのかな」って、心配の連続。
でも今回こうしてお話をもらって、夫も長年背中を押してくれていたのと、場所があるというタイミングも重なったので、やってみようかなって。
── お店の場所が蘇った喰丸小の隣というのも大きな決め手でしたか?
酒井 そうですね。すごく大きいと思います。やっぱり立ち寄ってくれるのは、喰丸小を見に来てくれるお客さんがほとんどなので、喰丸小の存在が大きいです。
実際、改修されるまではいつも前を通りすぎるだけで、校内に入ったこともありませんでした。でも紅葉の時期とか、イチョウの木と学校の景色がすごく綺麗で、「無くなって欲しくないなぁ」とは思っていて。
改修工事が終わってから、訪ねてくるお客さんが喰丸小が残っていることをものすごく喜んでいたり、卒業生でもないんだけど、「この景色を見ているだけで嬉しくなった」と泣かれたお客さんもいたりして、喰丸小ってすごい景色なんだなぁと改めて感じました。
「蕎麦が出せないならやらない」。十割蕎麦へのこだわり
── 「蕎麦カフェ SCHOLA」という名前はどうやって決めたのですか?
酒井 学校の隣だから学校に関係する意味にしようか、蕎麦だから蕎麦関係か、それともイチョウの木に関係する名前がいいのか、とものすごく悩んでいたのですけど。
そうしたらたまたま「スコラ」というのがラテン語で「学校」という意味だと知って、音の響きも、この建物の感じと合って気に入ったので、「じゃあこれで」と決めました。
── そんなスコラ、カフェでありながら十割蕎麦を提供されるあたりに、酒井さんのこだわりを感じます。1階に蕎麦打ちスペースがありましたが、あのお部屋で打つんですか?
酒井 お店をやるとなったときに、「蕎麦が出せないならやらない」と、そこはわがままを言いました。それから急遽、1階にそば打ち部屋を作ってもらったんです。
蕎麦ってどうしても打ち始めてからちょっとでも他のことに気を取られたりするとその間に乾いちゃうし、ほんとうに集中してやらないとダメで。蕎麦を打っているときは、できれば打ち始めから切り終わりまで時間をかけないように、集中してやりたい。だから毎朝早めに来て、その日お店で出す分を打っています。
── 蕎麦粉のガレットも生地がどっしり食べ応えがあって、美味しかったです。あのメニューもご自身の提案で取り入れたんですか?
酒井 せいろ蕎麦と蕎麦のガレットは絶対に出したいと決めていました。何年も前に横浜で初めて食べて以来、いろんなお店で材料を尋ねると小麦粉や牛乳を混ぜているお店が多かったんですね。でも、うちでは十割の蕎麦を出しているので、「蕎麦粉だけでできないかなぁ」と考えていました。
蕎麦粉だけだとどうしても苦味も出てしまうので、少しだけ蜂蜜を混ぜたりして、ようやく完成。多くのガレットはもっと薄い生地ですが、うちのはカリッと焼き目がついていて、もちもち感があって、他とはまた違う食べ応えなんです。
また、店名は「蕎麦カフェ」と謳っているので、食事を済ませてお店に来たときにコーヒーだけというのも申し訳ないし、やっぱりデザートがあったらいいかなぁという気持ちもあってケーキも提供しています。ゆくゆく余裕が出てきたら、ご飯ものが出せたらという構想もあるんです。そのときはぜひガレットもシェアして召しあがってもらえたら嬉しいですね。
── スコラを始めてみて、いちばん良かったと思うことはなんですか?
酒井 やっぱり、ひととの出会いかな。ここでお店をするようになって、ひととのつながりをすごく感じるようになりました。以前は厨房に入っている時間がほとんどで、余裕もなかったですし、その日その日をこなすことで精一杯でした。でも、スコラでは「カフェ」としているからか、そんなに追われることもなく。一人ひとりのお客さんとは他人なんだけど、「つながってる」と思えるんです。不思議ですよね。
村のひとやお客さんに来てもらって話をして、それで蕎麦も「美味しい」と言ってもらえるとすごくうれしくて。
それと、始める前は「子どもとの時間が取れなくなったらどうしよう」とか、色々考えて迷いもあったけれど、スコラを始めてからは、子どもと過ごせる時間が増えました。
以前は、休日はおばあちゃんたちのところに預けて、夕方迎えに行くという生活でした。でもいまは、休日は子どもと一緒に来て、洗い物を手伝ってもらったりしながら過ごせています。飽きても喰丸小の校庭で遊べるので安心ですし、子どもたちがイチョウの木の下で遊んでいる景色がすごく良くて。本人もいまのところ、毎週楽しみについて来てくれるので、ここでお店を始めて良かったなぁって。
なのでスコラに来てくれるひとたちにも、普段の忙しさを忘れて、ゆったりと時間を忘れてくつろいでもらえるようにしていきたいですね。
「寄り添う」という立ち位置で
店主の酒井さんは、人一倍責任感が強く、それでいて決して自分が前に出るというタイプではありません。
「やってみたいけれど、仕事の後任を誰にお願いしよう。家のこと、子どもたちのことだってある。何よりも、来ていただいたお客さんに美味しい蕎麦を食べてもらいたい」
自分の持ち場に責任を持つがゆえ、新しい挑戦は不安と心配の連続でもありました。そうした葛藤の中、力を必要としてくれるひと、思いをいっぱいに背中を押してくれるひとがいて、この場所だから「やってみよう」と一歩踏み出すことができた酒井さん。
言い換えると、酒井さんが蕎麦打ちへ寄せる真剣な想いが周囲のひとたちの心を少しずつ動かし続けた。そんな風に言えるのかもしれないと、お話を伺いながら私は思いました。
お客さんや村のひと、関わる相手の思いに寄り添いながら、喰丸小とともに昭和村の新たな居場所として育まれ始めた「蕎麦カフェSCHOLA」。
校庭のイチョウの木が黄色く染まるころ、若葉が青々と生い茂るころ。噛めば噛むほど味わい深い由美さんの手打ち蕎麦と蕎麦ガレットを食べに、ゆったりとした時間が流れるスコラを、ぜひ訪ねてみてください。
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文/中條美咲
編集/小山内彩希
写真/小松崎拓郎
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