仙台市のとあるマンションのベランダで、植物を育てはじめた。それまで筆者・小山内(24、女)の家での時間は、毎日変わりばえのしないものだったが、日々変化していく植物を見つめることでおなじものではなくなった。
この先になにがあるんだろう。
朝、ベランダの隅っこでしゃがんで両手を土だらけにしながら、ふと思った。手には花の苗。地面に敷かれた新聞紙の上には、摘み取った花がらと通販で買った培養土。そして鉢に苗を植え替える、泥んこの私。
最近、マンションのベランダでガーデニングをはじめた。
毎朝7時頃に起きて、顔を洗ったその足でベランダに出る。植物の目線にしゃがんで、昨日と今日の変化をじっくり観察。蕾だったものが開きかけているのを見つければ、思わず頬が緩む。
水やりをしながら下葉の混雑しているところを指でかき分けると、3日に1回のペースで春の虫が顔を出すことがある。この衝撃にはまだ慣れない。毎度、自分が女であることを忘れたような悲鳴をあげて、不審者さながら、誰も見てないのに辺りをキョロキョロしてしまう。
通販で注文した苗や種が届いたら、鉢に植え替えたり、種を蒔いたりして、「はやく明日がこないかな」って時計を早回ししたくなる。
気づいたのは、毎朝ベランダに出ていても、おなじことを繰り返している気には全くならないということ。それはきっと、植物が日々、変化していくからなんだろう。毎日が発見の連続。生き生きと過ごすって、こういうことかもしれない。
これを続けていった先に、どんな未来があるのかはわからない。目的や理由もない。あるのはその時々の“解釈”だけ。
ずっと、なにかを継続するのには、目的や理由、そして意思が必要だと思っていた。偶然で始めてみたことが、なんの見返りもなしに続くなんて、思いもしなかった。けれど現実はそうではなく、ただその時々の充実感だけでなにかが続いていったりもする。というのは、ベランダ園芸がいちばん最初に教えてくれたことだ。
たぶん明日もベランダに立つ。そして春の虫と格闘しながら、目の前の小さな命の成長過程に一喜一憂するだろう。そこには、昨日とはなにかが違う今日を生き、明日をたのしみに待つ自分がきっといる。
品種は、園芸店で多く出回っているブルーノート(スカビオサは80種類以上もあるらしい)。品種によって1年草、2年草、多年草と咲き方がバラバラだけど、写真のものは多年草なんだとか。多年草は植えっぱなしで毎年咲き続ける植物なので、長く楽しむために丁寧にお世話したいところ。