文学の舞台を訪ねる。作品に出てくる料理を作る。作家の暮らした街へ行く。“文学を旅行する”と目からウロコの連続です──。連載チェストいけ!文学旅行【鹿児島編】第3回は2つの秘湯にスポットを当てます。はじめに与謝野晶子の短歌で指宿市の砂むし温泉を、次に坂本龍馬が姉の乙女へ宛てた手紙を読みながら霧島市の塩浸温泉を。では、行ってまいります。
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葦簀(よしず)で囲われた砂場に浴衣姿で横たわる。そこへ、ねじり鉢巻きにハッピ姿の係員がスコップで砂を掛けてゆく。温泉を吸った砂はズシリと重い。唯一外界に出している顔から汗が吹き出してくる。砂の中では、お尻に火が着いたよう。たまらず腰を動かそうものなら、できたすき間の空気がさらに熱せられてしまうので注意が必要だ。熱い。熱い──。
しら波の下(した)に熱沙(ねっしゃ)の隠さるる不思議に逢へり揖宿(いぶすき)に来て
(与謝野晶子・鉄幹『霧島の歌』その二 第300)
薩摩半島の南端に位置する指宿の砂むし温泉は、山手から海岸へ温泉が自然湧出しており、世界でもここでしか体験できない秘湯です。その歴史は古く、江戸時代初期の1703年(元禄16年)ごろから湯治に使われていたそうで、なぜ海岸の砂浜に温泉が自然湧出するのか、そのメカニズムの詳細は、今も分かっていません。
この地に与謝野晶子・鉄幹が吟行したのは1929年(昭和4年)7月のこと。事あるごとに故郷の鹿児島を自慢する友人・山本実彦(ジャーナリストで改造社の創業者)に招待されてのこと、でした。
来て立つや沙の身すらも極熱(ごくねつ)のおもひを持てる揖宿(いぶすき)の磯
(同上 第323)
情熱の歌人・与謝野晶子は、指宿の砂にさえ”熱き思い”を見出しており、何だかおもしろいのです。それが、恋愛のことなのか、それとも仕事のことなのか、にわかには読み取れません。読む人がそのときの状況に応じて感じればよいわけですが、しかし、熱砂と闘っているときにそんなことを考えている余裕はなく、身体と相談しながら、さあ入浴時間の目安とされる10分を超えて、どこまで入っていられるか挑戦です。
揖宿(いぶすき)の渚の熱沙(ねっしゃ)茨(いばら)踏むここちと似ずてものの悩まし
(同上 第318)
ボクよりあとに埋まった関西文化圏から来たとおぼしき若夫婦は、奥さんが「あかん、もう出る」と音を上げてしまいました。これを機に、ついにボクも熱砂を払い除けました。浴衣は汗でびっしょり。目途の10分を何とか5分超過して、入浴15分をちょうど計上したところでした。
砂の温度は平均50度。最近の家庭の風呂では40度でも高いとされているので、砂むしの熱さはご理解いただけるでしょう。加えて砂の重さが身体に掛かることによる効用も医学的に検証されていて、これで黒く淀んだ静脈流がサラッサラの真っ赤な血になっているはず。血管が開き血液循環の促進によって老廃物が浄化されます。血圧も低下しているはずなのです。
恋の火と云ふものも見し人ながら美くしとする燐の虫の火
(同上 第315)
宿の夜を照らす灯火に虫が飛び込む様子をとらえて、激しい恋をしてきた人も今はこんな小さな火を美しいと思う境地になった──女性にとって、熱くなるのはやっぱり恋愛方面のようです。
与謝野晶子、このとき51歳。売れない夫・鉄幹も慶應義塾教授の職を得て10年が経っており、12人の子を産んだ情熱の人は生活も安定し、歌人としてだけでなく評論家・女性思想家としても脂が乗ってきたころでした。しかも、この吟行は、当時、出版界をリードしていた『改造社』=山本の招待です。功成り名を遂げたという達成感を満喫した旅だったのかもしれません。
日本全国を旅して数多くの吟行を著した与謝野晶子にとって、夫との共著は全部で5冊。『霧島の歌』は4冊目にあたり、旅先の地名を付けた歌集は、これが唯一であることからも印象深い旅行だったことがうかがえます。……ああ、売れるって大切ですね(笑)。
さて、“熱い”といえば……
幕末志士の中でも人気の高い坂本龍馬と、その妻お龍が日本初の新婚旅行をしたと言われる旅先が、じつは、ここ鹿児島なのです。
1866年(慶応2年)12月4日に龍馬が姉の乙女に宛てた手紙を追いながら、指宿市から霧島市へ移動して旅を続けましょう。
龍馬の手紙は、お龍さんを妻にした報告から始まります。
今年正月廿三日夜のなんにあいし時も、此龍女がおれバこそ、龍馬の命ハたすかりたり。京のやしきニ引取て後ハ小松、西郷などにも申、私妻と為(レ点入る)知(しらせ)候。
(1866年《慶応2年》12月4日乙女宛手紙より)
【抄訳】今年正月23日の寺田屋事件のときも、お龍のおかげで命が助かった。京都の(薩摩藩)屋敷に彼女を引き取って、小松(帯刀)、西郷(隆盛)などに「私の妻だ」と報告した次第です。
手紙はその後に、寺田屋事件で負った刀傷を癒すため、薩摩藩の友人から誘いを受けてお龍と一緒に旅へ出たことが記されます。これがのちに“新婚旅行”と言われることになるわけです。
1866年3月4日(旧暦)、大阪で薩船「三邦丸」に乗り込み、西郷隆盛、小松帯刀、桂久武、吉井幸輔らと共に鹿児島へ向けて出発。友人とはいいものですね。これが、長州藩ではなく、薩摩藩の連中だったというのがまた、鹿児島の人情味厚いところのように思えてしまいます。
3月16日、鹿児島に上陸して二人は日当山(ひなたやま)温泉に泊まります。そして翌17日から塩浸(しおひたし)温泉に11泊して龍馬は湯治をするのです。
塩浸温泉龍馬公園は、霧島市から管理指定業者の指定を受けて、NPO法人薩摩龍馬会が運営をしています。温泉の泉質は茶色く濁り、鉄分の匂いがします。150年前に同じ湯で30歳の坂本龍馬が湯治をしたと思うと、ちょっと感慨深いものがあります。同温泉には龍馬資料館が併設されており、龍馬にまつわる資料が数多く展示されていて、この乙女姉さんに宛てた手紙もありました。以下が、それです。
「これかあ」と思われた読者諸兄諸姉も多いのではないでしょうか。お龍と登った霧島山(高千穂峰)を図解する、じつにユーモラスな手紙として有名です。龍馬の手紙は、とりわけ乙女宛てのものを読むと、肩肘張ったところがなく、大の男の無邪気な一面が表われていておもしろいのです。これもある種の文学でしょう。ボクは名文だと思います。
ところで、2009年という比較的最近のこと、ふたりの新婚旅行の”熱かった”様子が新発見された資料で分かり、多くの龍馬ファンを驚かせた事件がありました。字数の関係で詳細は記せませんが、興味のある方は
「キング」「昭和4年」「吉井幸蔵」などのキーワードを加えてググってみてください。資料の中で証言されている生き生きとしたふたりを前にして、きっと楽しい想像力の旅行ができるはずです。
やれ/\とこしおたゝいて、はるバるのぼりしニ、かよふなるおもいもよらぬ天狗の面があり、大ニ二人りが笑たり。
(同上)
【抄訳】やれやれと腰をたたいて、はるばる登っていくと、思いもよらず、天狗の面があり、(げにおかしき顔つきにて)大いにふたりで笑いました。
龍馬は湯治のあいだ、お龍と一緒にいろいろな場所を巡ります。中でも高千穂峰に登り、その頂上に刺されている「天の逆鉾」(あまのさかほこ)に天狗の顔が彫られているのを知って、ふたりで大いに笑ったというくだりは有名です。龍馬は、無邪気というか、ナントこの逆鉾を抜いてしまうのです。
2010年のNHK大河ドラマ『龍馬伝』でも、福山雅治の扮する龍馬がお龍とふたりで逆鉾を抜く場面は描かれています。逆鉾は、記紀神話に登場する矛です。イザナギとイザナミが大地に突き刺し、それによって日本列島ができたという神話です。
……そう言えば、イザナギとイザナミも、男神と女神のカップルですね。
──天の逆鉾は、いったい“誰”がそこに置いたのですか?
「……神話では、イザナギとイザナミが大地に突き立てた……」
──いや、いや、どなたが……(野暮なことを訊くような感じがしてきて、だんだん消沈していく)
「……それはわからないんですね(笑)」
──今もある逆鉾は、龍馬が抜いたものと同じものなのですか?
「同じです(キッパリと)」
ボクの、粋(いき)を理解しない取材に快く応えてくれたのは、NPO薩摩龍馬会の副理事長で、塩浸温泉龍馬公園園長の渡邊英彦さん。霧島ホテルの支配人を引退後、龍馬好きの熱が高じてNPOを立ち上げ、自ら園長になった人です。
“熱さ”の対象は、人それぞれでしょう。あなたは、何かに熱くなっていますか? 熱くなれていますか? 熱さを持っていますか?
……それにしても、やっぱり温泉は、男女で行くもののようですね。
トホホ。
旅のお供──
与謝野晶子・鉄幹『霧島の歌』
坂本龍馬 慶応2年12月4日 坂本乙女宛て手紙
旅をした場所──
指宿市・砂むし会館 砂楽:JR指宿駅から徒歩20分 バス140円
効能:神経痛、筋肉痛、運動麻痺、慢性消化器病、健康増進など
霧島市・塩浸温泉龍馬公園:嘉例川駅から4km
効能:切り傷、皮膚病、神経痛、胃腸病など
次回は、紺碧の海を抱く坊津市を、梅崎春生『幻化』で旅をします。
鹿子沢ヒコーキ(かのこざわひこーき)
文学で地域活性化を手伝うNPO法人の代表。表仕事は出版社で編集長。次なる旅先は金沢。文学作品ゆかりの場所・モノ・コトの情報を募集中。
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